従業員から「手取りが減るから社会保険に入りたくない」「夫の扶養から外れたくない」と言われたとき、経営者や人事担当者の中で「本人も嫌がっているし、会社としても社会保険料の折半負担が浮くから、このまま未加入にしてお互いラッキーではないか」と、つい甘い考えがよぎってしまうケースがあります。
しかし、この「曖昧なままでの放置」は絶対にNGです。
結論から申し上げますと、従業員がどれほど嫌がっていようとも、加入要件を満たしている労働者について、本人が希望していないことを理由に社会保険の加入手続きを行わないことは認められません。
国(厚生労働省)や日本年金機構は、未適用事業所の解消や社会保険の適用適正化に向けた取り組みを継続的に進めています。
万が一、調査等で加入漏れが判明した場合には、過去にさかのぼった資格取得や保険料負担が発生し、会社にとって大きな経済的負担となる可能性があります。
「従業員の希望を叶えたい」という優しさと、「会社の負担を減らしたい」という利害が一致して放置してしまうと、後から大きな代償を払うことになりかねません。
では、会社のコンプライアンス(法令遵守)を守りながら、従業員の切実な「手取りを減らしたくない」「扶養を維持したい」という要望にどう応えればよいのでしょうか。
そのカギは「働き方そのものを見直すこと」にあります。詳しくは後半の「解決策」で具体的に解説します。
この記事で分かること
- 適用基準を満たした未加入を放置することの違法性と、日本年金機構の調査実態
- 従業員が拒んでいても、行政の調査では本人の意向や同意書が免罪符にならない理由
- 実際の事業所調査でチェックされる出勤簿や賃金台帳などの具体的なポイント
- 若年層(制度の未理解)と主婦層(扶養の維持)で異なる加入拒否の理由と対応の違い
- コンプライアンスを守りながら、働き方の見直しやシフト調整で双方の納得感を作る方法
「なあなあ」で未加入を放置してしまう心理
実際の顧問先の経営者とお話ししていても、社会保険の加入基準の認識がどこかあいまいなままになっており、「これって、もしかしたら法令違反なのでは……」と、後ろめたさや不安を薄々感じつつも、そのままにしてしまっているケースは少なくありません。
現場でよく耳にするのが、次のようなやり取りと本音です。
- 従業員からの声
- 手取りが減るので社会保険に入りたくない
- 夫(妻)の扶養から外れたくない
- 会社側の本音
- 本人もそれだけ嫌がっているし、会社としても社会保険料の折半負担が浮くから、このまま未加入にしておけばお互いラッキーではないか
従業員側には「手取りや扶養を守りたい」という事情があり、会社側には「保険料の負担を抑えたい」という利害が一致するため、つい面倒な話を避けて曖昧なまま見過ごしてしまいがちになります。
しかし、お互いがその場で納得しているように見えても、この「見て見ぬふりのの放置」には大きなリスクが伴います。会保険未加入のリスク
「お互いが納得しているから大丈夫」という認識のまま放置してしまうことには、実務上大きなリスクが伴います。
行政の動向を踏まえ、次の3点を確認しておく必要があります。
① 日本年金機構による事業所調査の実施
日本年金機構では、未適用事業所の解消や加入漏れを防ぐため、全国の年金事務所において事業所調査(適用調査)を行っています。
短時間労働者を多く雇用する事業所や各種届出の提出状況などを踏まえ、訪問や郵送など、それぞれの状況に応じた方法で実施されています。
② 行政機関が保有する情報を活用した把握
日本年金機構は、法人登記情報や雇用保険の適用情報など、行政機関が保有する情報を活用しながら、社会保険の適用対象となる事業所の確認を進めています。
そのため、「加入していない状態のままでも気づかれない」とは言い切れません。
加入対象に該当していると判断された場合、文書による照会や調査が行われることがあります。
③ 「本人の同意書」の取り扱いについて
現場では「従業員が加入を希望していない」「本人の同意書がある」という理由で未加入としているケースが見られます。
しかし、健康保険や厚生年金は法律上の要件を満たした場合は適用される制度です。
そのため、行政の確認が入った際には、本人の意向のみを理由として未加入のままにすることは認められません。
万が一、加入対象でありながら未加入であったことが判明した場合は、本来の要件該当日にさかのぼって資格取得の手続きが行われることがあります。
また、時効にかかっていない期間については保険料が徴収されることがあり、会社には本来負担すべき保険料の納付が求められるため、予期せぬ経済的負担となる可能性があります。
年金事務所の調査で確認される主な書類
事業所調査が行われる際、実態を確認するために次のような書類の提示を求められることが多くあります。
- 出勤簿
- 日々の出勤状況や勤務日数を確認し、実際の勤務実態や社会保険の加入要件を満たしているかを確認します。
- 賃金台帳
- 支給されている賃金の額を確認し、社会保険料の計算基礎となる情報を把握します。
- 労働者名簿
- 在籍している従業員の基本情報や入社年月日などを確認します。
- 雇用契約書・労働条件通知書
- 所定労働時間や契約期間などを確認し、加入要件を満たしているかを確認します。
- タイムカード・シフト表
- 日々の具体的な就業時間や勤務実態を確認するための資料として用いられます。
このように、事業所調査では日頃の労務管理に関する客観的な書類をもとに、加入状況の確認が行われます。
個人の希望や合意の有無に関わらず、実際の勤務実態に基づいて判断されるため、日頃から法令に沿った適切な書類の整備と管理を意識しておくことが大切です。
従業員の「入りたくない」にどう向き合うか?立場に応じた対応の違い
従業員から「社会保険に入りたくない」と言われたとき、すべての従業員に同じ説明や対応をしていないでしょうか。
実は、若年層と主婦(夫)・パート層では、加入をためらう理由や背景が大きく異なります。
そのため、相手の状況に合わせたアプローチを変えることが実務上重要になります。
1. 若年層|「よく分かっていない」が多いため、制度の意義から伝える
若い世代の従業員から「手取りが減るから入りたくない」という声が出た場合、その背景にあるのは「社会保険の仕組みやメリットを十分に理解できていない」というケースが少なくありません。
- 現場の状況
- 目先の「毎月の手取り額」の減少ばかりが気になってしまい、健康保険による手厚い医療保障(傷病手当金や高額療養費制度など)や、将来の厚生年金受給額が増えるというメリットをイメージできていないことが多くあります。
- 対応のポイント: 感情的に「法律だから入らなければならない」と押し付けるのではなく、次のような具体的な制度のメリットを分かりやすく伝え、理解を促すアプローチが効果的です。
- 健康保険のメリット: 病気やケガで長期間働けなくなったときの「傷病手当金」や、医療費の自己負担を抑えられる「高額療養費制度」など、現役時代の思わぬリスクに備えられること。
- 厚生年金のメリット: 将来受け取る老齢年金額が基礎年金(国民年金)だけに比べて手厚くなるだけでなく、万が一障害を負った場合の「障害厚生年金」や、遺された家族のための「遺族厚生年金」など、人生の大きなリスクに対する手厚い保障が網羅されていること。
このように、若年層に対しては「社会保険料は単なる天引きではなく、自分自身の生活と将来を守るための手厚いセーフティネットである」という点を丁寧に説明することが大切です。
2. 主婦(夫)・パート層|「扶養を外れたくない」という切実な事情に寄り添う
一方で、主婦(夫)・パート層が「入りたくない」と言う場合の多くは、世帯全体の収入バランスや配偶者の扶養(税や社会保険)を維持したいという、非常に明確で現実的な理由に基づいています。
- 現場の状況
- いわゆる「年収の壁」を意識しており、本人としても「これ以上働くと手取りや世帯収入がかえって減ってしまうのではないか」という不安を抱えていることがほとんどです。
特にパート従業員の場合、「130万円の壁」を意識して働く時間を調整しているケースも少なくありません。
2026年4月からは、扶養認定における年収判断の考え方が見直され、雇用契約書(労働条件通知書)の内容がより重要になります。
130万円の壁の変更内容や、会社が準備すべき雇用契約書のポイントについては、以下の記事で詳しく解説しています。
- 対応のポイント
- この層に対しては、制度のメリットを一方的に説明するだけでは解決しません。
- 会社としては、その希望や事情を確認したうえで、法令を踏まえた働き方を一緒に検討することが重要です。
- 例えば、「現在の働き方を見直して扶養の範囲内を維持するのか」「社会保険に加入し、収入や保障を充実させる働き方を選択するのか」といったように、本人の生活状況に応じた具体的な方向性を提示することが求められます。
従業員の「入りたくない」という言葉をひとくくりにしてしまうと、納得感を得られないまま無理な対応になりがちです。
相手が「制度をよく分かっていない若年層」なのか、「明確な理由があって扶養を維持したい主婦層」なのかによって対応を分け、実態に即したコミュニケーションをとることが大切です。
よくある質問
- 従業員が同意書にサインしていれば、未加入のままでも問題ありませんか?
- A. 問題があります。社会保険は、従業員本人の希望だけで加入・未加入を自由に選べる制度ではありません。加入要件を満たしている場合、本人の同意書があっても会社は資格取得手続きを行う必要があります。
- 扶養内で働きたいというパート従業員には、どう説明すればよいですか?
- A. まず現在の勤務実態や契約内容が加入要件に該当するかを確認します。そのうえで、扶養の範囲内を維持できるよう労働時間を調整するのか、あるいは社会保険に加入して収入や保障を充実させる働き方を選ぶのか、本人の希望と法令の両方を踏まえた選択肢を一緒に検討していくことが求められます。
- 加入対象なのに未加入だったことが後から分かった場合、会社にはどのようなリスクがありますか?
- A. 本来の要件該当日にさかのぼって資格取得の手続きが行われ、時効にかかっていない期間については保険料の徴収が行われることがあります。会社には本来負担すべき保険料の納付が求められるため、予期せぬ経済的負担が生じる可能性があります。
解決策|双方の要望を満たすには「働き方を変える」しかない
従業員の事情や「入りたくない」という思いを把握したうえで、会社として法律上の基準を守りつつ落とし所を見つけるには、実務上大きく分けて2つの選択肢があります。
① 本人の希望に応じて、加入要件を踏まえた働き方を検討する
「どうしても社会保険料の負担を避けたい」「配偶者の扶養の範囲内で働きたい」という希望がある場合でも、まずは現在の労働条件が社会保険の加入要件に該当するかを確認することが重要です。
そのうえで、本人の希望や生活状況を踏まえ、勤務日数や労働時間など、今後の働き方について会社と従業員で十分に話し合う必要があります。
- ポイント: 「なんとなく気づいたら契約内容と実際の勤務状況が異なっていた」という状態を防ぐため、日頃から労働時間や給与の状況を適切に管理し、勤務実態を正確に把握しておくことが重要です。
② いっそ社会保険に加入して「それ以上に稼ぐ・保障を得る」
中途半端に労働時間を削るのではなく、社会保険の加入要件を満たす働き方にシフトする選択肢です。
なお、2026年10月からは短時間労働者の社会保険加入要件について、「月額賃金8.8万円以上」という賃金要件が撤廃されます。これにより、加入判断では「週の所定労働時間が20時間以上かどうか」がこれまで以上に重要な基準になります。
今後、社会保険加入を前提とした働き方を検討する企業では、加入対象者の範囲や企業側が準備すべき対応を正しく理解しておくことが重要です。
- ポイント: 若年層に対しては、医療保障や将来の厚生年金といったセーフティネットの価値を伝えて理解を促します。また、パート層に対しては、社会保険料の負担を上回るだけの収入を得られるように勤務時間を増やし、世帯収入全体としてプラスになるような働き方の設計図を会社側から提案することが有効です。
このように、会社側が曖昧な認識のままで未加入を放置するのではなく、
- 現在の勤務条件が加入要件に該当するかを確認したうえで働き方を見直すか
- 社会保険に加入して収入や保障を充実させる働き方を選択するか
のどちらかの道筋を、本人の意向と実態に合わせて明確に選択・管理していくことが求められます。
まとめ|ルールを守りながら双方の納得感を作る労務管理を
「従業員が嫌がっている」「会社も保険料の負担が抑えられてお互いラッキーだ」という曖昧な認識のまま未加入状態を放置することは、行政機関による情報把握や日本年金機構の事業所調査が行われている現在、大きなリスクにつながります。
「本人の同意書があるから大丈夫」という考え方は、行政の前では通用しません。
万が一、加入対象でありながら未加入であったことが判明した場合、本来の資格取得手続や保険料の徴収が行われ、会社に予期せぬ大きな経済的負担が発生する可能性があります。
社会保険労務士としての実務に携わる中でも、会社が法律上のルールを適切に守ることは大前提だと感じます。
そのうえで、従業員が抱える「手取りや扶養を維持したい」という事情にも目を向け、感情論で片付けるのではなく、「加入要件を踏まえた働き方の検討」や「社会保険加入を見据えた働き方の提案」を行うことが重要です。
法律のルールを守りながら、会社と従業員双方が納得できる働き方を一緒に考えていくことこそが、適正な労務管理につながります。
最後までお読みいただきありがとうございました。ご相談の際は、以下よりお気軽にお問い合わせください。☟
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- 執筆者|社会保険労務士 戸塚淳二(社会保険労務士登録番号|第29240010号)
- 日々、企業の「ヒト」と「組織」に関わる様々な課題に真摯に向き合っています。労働法の基本的な知識から、実務に役立つ労務管理の考え方や人事制度の整え方まで、専門家として確かな情報を初めての方にもわかりやすくお伝えします。
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